王位の強奪をめざした首陽大君(スヤンデグン/後の世祖〔セジョ〕)は、1453年に甥の端宗(タンジョン)を補佐していた忠臣たちを次々に殺した。この事件は歴史的に癸酉靖難(ケユジョンナン)と呼ばれている。その次に首陽大君は何をしたのか。
大義名分がない政変
首陽大君側が大臣たちをすぐに殺したのは完全な越権行為である。仮に反逆者に仕立てあげたとしても、まずは捕らえて自白させるのが常識だった。法で正々堂々と裁くためには絶対にそうすべきなのである。
徹底した中央集権体制だった朝鮮王朝では、死刑を言い渡せるのは王だけだった。王にしか、死刑判決を下す権限がなかったのだ。
それも法に照らして決められるものであり、いくら王でも確かな証拠がなくして簡単に処罰できるものではなかった。
しかし、首陽大君は金宗瑞(キム・ジョンソ)と主要な大臣たちと弟の安平大君(アンピョンデグン)を何の取り調べもしないまま殺している。
証拠が何もなかったからだ。
結局、反逆の全貌を明らかにしなかったのは、それだけ殺された人たちに罪はないという反証になるのではないか。
癸酉靖難は首陽大君の野心をかなえるための一方的な政敵虐殺だ、という評価が後に残ったのは、こういうことが影響している。
癸酉靖難が正当性を持てないということは、この事件で生まれた首陽大君を中心とする政権自体に大義名分がないということになる。
正当性のない政権は歪曲された道へ進んでしまう。それが首陽大君が後世に汚名を残す理由となった。
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甥の端宗(タンジョン)から王位を奪った世祖(セジョ)の悲劇とは?
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