朝鮮王朝人物列伝/第10回
仁顕(イニョン)王后は、「朝鮮王朝3大悪女」の1人である張禧嬪(チャン・ヒビン)や19代王・粛宗(スクチョン)によって、いろいろと翻弄された人物だ。彼女も息子を産んでいれば、このようなことにはならなかったのだが……。
王妃となった仁顕王后
仁顕王后は、粛宗の最初の王妃である仁敬(インギョン)王后が亡くなったことにより、1681年に二番目の王妃として迎えられた。彼女はとてもお人好しな性格で、それを示す話がある。
粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、粛宗が寵愛する張禧嬪の欲深さに気づいて、息子に悪影響が出る前に王宮から追い出した。仁顕王后は、粛宗が気に入っている女性が宮中にいないのはどうかと考えて、明聖王后に「張禧嬪を復帰させてほしい」と願い出る。明聖王后は、仁顕王后のあまりの人の良さにあきれるが、彼女は張禧嬪を王宮に戻そうとはしなかった。
1683年、明聖王后が41歳で世を去ると、仁顕王后は張禧嬪を王宮に戻した。しかし、張禧嬪は彼女にお礼を言うどころか冷たい態度を取った。それを見た仁顕王后は、ようやく目を覚ましたが、自分の行動が間違いだったことに気づいたときは、もう遅かった。張禧嬪が粛宗の息子を産んだのである。その後、張禧嬪の頼みを受け入れた粛宗によって、仁顕王后は1689年に廃妃となってしまう。(ページ2に続く)