心労が積み重なってしまった
成人した明宗は自ら政治を仕切るようになったが、ことあるごとに口をはさんできたのが文定王后だった。
彼女のやり方は露骨だった。
最初は文書で明宗に指図してくるのだが、明宗がそれに従わないときには、強引に王を呼びつけて叱責した。
ときには、王の頬をたたくことさえあった。
母親とはいえ、王に対してあまりに不敬だった。しかし、心優しき明宗は、最後には母の言葉を拒むことができなかった。
結局、文定王后は「陰の女帝」として私腹を肥やすための政治を続けていき、明宗はそのたびに悲嘆に暮れた。
その文定王后は、1565年に世を去った。
それは、悪政の終わりを意味していると思われた。
事実、明宗は新しい人材を登用して、文定王后の息がかかった奸臣(かんしん)たちを罷免した。追放された者の中には、文定王后の弟であった尹元衡(ユン・ウォニョン)もいた。彼は明宗にとって叔父であったが、悪政の象徴のような人物であり、新しい政治には邪魔となる存在だった。
こうして新しく民衆のための善政を始めた明宗。しかし、わずか2年で命が尽きてしまった。1567年に亡くなったときは、33歳の若さだった。
よほど心労が積み重なっていたのだろう。
文定王后の悪政に心を非常に痛めていた明宗は、結局は極度のストレスによって命を縮めたのである。
構成=「歴史カン・ヒボン」編集部
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