韓国時代劇の『七日の王妃』と言えば、王妃になってわずか七日で廃妃(ペビ)になってしまった端敬(タンギョン)王后を中心に描かれている。物語に深く関わってくるのは、燕山君(ヨンサングン)と中宗(チュンジョン)だ。この3人は、どのような歴史背景を持っているのか。
恨みを買った燕山君
10代王の燕山君は、史上最悪の暴君として知られている。
彼の母親は、9代王・成宗(ソンジョン)の正室だった尹(ユン)氏だったが、側室を呪い殺そうとしたり、王の顔にひっかき傷を作ったりして死罪となってしまった。それは、燕山君が6歳のときのことだった。
彼は、母親の死の真相を知らないままに成人して王になったのだが、後に母親の無念の死を知ると、逆上して死罪に関係した人たちを根こそぎ虐殺した。すでに、死んでいる人の場合は、墓をあばいて首をはねたと言われている。
それほど残虐な暴君であっただけに、多くの恨みを買い、1506年にクーデターで王宮を追われてしまった。
その燕山君に代わって即位したのが、11代王の中宗である。彼の母親は、成宗が尹氏を廃妃にした後に正室に迎え入れた貞顕(チョンヒョン)王后だ。その貞顕王后が、1488年に産んだのが晋城大君(チンソンデグン/後の中宗)だった。
燕山君と晋城大君は異母兄弟であった。
年齢は燕山君のほうが12歳上であり、性格が粗暴であった燕山君は、晋城大君を徹底的にいじめ抜いた。
それゆえ、晋城大君は兄に対して恐怖すら感じていた。
1506年、燕山君を追放しようとしてクーデターを起こした高官たちは、最初に晋城大君の屋敷を訪れた。燕山君の後に即位してもらうためである。
しかし、多くの兵士が屋敷に向かってくるのを見た晋城大君は、「兄が自分を殺しに来た」と錯覚してしまった。
絶望した晋城大君は自害しようとしたが、それを必死に止めたのが妻であった。いわば、晋城大君は妻の必死の制止によって生き延びたのである。
その晋城大君は、燕山君が廃位になった後に中宗として即位した。必然的に、妻は端敬王后という王妃になった。
しかし、クーデターを成功させた高官たちは、即座に中宗に対して妻の離縁を要求してきた。その理由は何なのか。
実は、端敬王后の父は燕山君の側近の慎守勤(シン・スグン)だった。慎守勤は、高官たちに殺されており、端敬王后が恨みを持っていることは間違いなかった。さらに、燕山君の正室だった慎(シン)氏は、端敬王后の叔母であった。
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