国書の文面が大問題になる
日本の国内でも朝鮮半島を見る目が変わってきます。おりしも、本居宣長が『古事記』『日本書紀』の中に日本人が見いだすべき真実があると説いていた時期でした。こうした国学が盛んになってくると、他国を批判して自国のすばらしさを強調する手法も勢いを得てきました。
19世紀の半ば、雄藩の跋扈(ばっこ)と欧米列強の外圧で徳川幕府の衰退が著しくなりました。一方の朝鮮王朝も、凶作が続いていたにもかかわらず国王の外戚が政治を牛耳り、国内が混乱するばかりでした。これでは日本に目を向ける余裕すらありません。こうして、長く続いた善隣関係も途絶えてしまったのです。
そんな状況の中で、先に倒れたのが徳川幕府でした。1867年10月、15代将軍の徳川慶喜は大政を朝廷に奉還しました。264年も続いた徳川幕府が終わったのです。
翌年早々に戊辰戦争が起こり、日本国内が内乱状態になりましたが、その年の秋には旧幕府軍はほぼ一掃されました。
新しく誕生した明治政府は、1868年10月に「政権が変わったことを朝鮮王朝に伝えよ」と対馬藩に命じました。そこで、対馬藩の使節が朝鮮半島にわたって明治天皇の国書を渡しました。その文面が朝鮮王朝側で大問題になります。それは、皇帝を意味する「皇」と、皇帝の命令を意味する「勅」が使われていたからです。
朝鮮王朝側が認識している東アジアの秩序では、皇帝を名乗れるのは中国大陸の覇者だけなのです。その考えに沿って、朝鮮王朝の統治者は格が1つ落ちる「王」を称していました。しかし、日本が「皇」を名乗ってくれば、朝鮮国王が格下になってしまいます。序列を重んじる儒教思想を国教にしている朝鮮王朝では絶対に容認できないことです。(ページ3に続く)
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