1400年に即位
事件に一番衝撃を受けたのは、芳碩を可愛がっていた李成桂だった。彼は失意のまま王位を退いた。朝鮮王朝設立からわずか6年後のことだった。
反乱の首謀者である李芳遠は、自ら王になろうとはせず、二男の芳果を王に推薦した(長男の芳雨は、すでに死んでいた)。芳果は2代王・定宗(チョンジョン)となるが、実質的な権力は李芳遠が握っていた。
定宗には子供がいなかったために、次に王になるのは李芳遠だと誰もが思っていた。しかし、李芳遠の兄である四男の芳幹も王位を狙っていた。
「芳遠をどうにかできれば次の王位は俺のものだ」
芳幹は李芳遠を討つ時期を狙い、力を蓄えていった。しかし、芳幹の不穏な動きを察知した李芳遠もまた、戦の準備を進めていた。
1400年、2人の王子の戦いがついに始まった。しかし、高麗時代から軍事を任されてきた李芳遠の軍に、芳幹は太刀打ちできなかった。戦いに敗れた芳幹は島流しにされ、もはや宮中で李芳遠に逆らえる人物はいなくなった。これが「第二次王子の乱」だ。
こうなると、次に身の危険を感じたのが定宗だった。
「早く王位を芳遠に譲らなくては、いずれ殺されてしまう……」
そう感じた定宗は李芳遠に王位を譲り隠居した。
李芳遠は1400年に3代王の太宗(テジョン)として即位し、絶対的な実力者として王権の強化に努めた。(ページ3に続く)
イ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)はどんな人だったのか?
孝明世子(ヒョミョンセジャ/名はイ・ヨン)はどれほど優秀だったのか?
イ・ヨン/孝明世子(ヒョミョンセジャ)はどのように亡くなったのか