文定王后の最期
1565年、明宗が即位して20年が経った頃、文定王后は死の床にあった。彼女は最
期のときを迎えても、信奉していた仏教の将来を案じていた。しかし、本来の国教は儒教であり、仏教は排斥の対象となっていた。
「この国では仏教は異端なので、私の死後、殿下はこれを禁止するかもしれません。でも、せめて宮中では私の意思を尊重してください」
文定王后はそう願いながら他界した(尹元衡と鄭蘭貞は最大の後ろ楯を失って自害せざるをえなかった)。
このとき、明宗はどう対応しただろうか。亡き母の意思をくんであげたのか。
否である。ようやく絶対的な王として君臨できるようになった明宗は、国の方針である
崇儒排仏(儒教を崇めて仏教を排斥すること)にこだわった。政治的にも彼は一本立ちしたのである。
権力欲に取りつかれた文定王后が亡くなったあと、庶民は明宗の善政に期待した。しかし、気苦労の絶えなかった彼は、母の死の2年後に、床に伏せるようになった。
明宗に息子がいなかったために、周囲は王が誰を後継者に指名するのか気をもんだ。
かつて、明宗が自分の血筋にあたる子供たちを集めたことがあった。そして、自分の王冠を子供たちに渡し、「お前たちの頭の大きさを比べてみよう」と言った。
子供たちは無邪気に王冠をかぶった。しかし、一番年少だった河城(ハソン)は、王冠を両手で受け取るやいなや、それを王に返した。(ページ3に続く)
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