強硬だった粛宗
さらに、粛宗の発言が続きます。
「余は今、宗社(国と朝廷)や世子のため、このようにやむを得ないことをするのだが、それが楽しいはずがなかろう。張氏には自害することを命じる。ああ、余が世子(セジャ)の事情を考えないはずがない。大臣やその他の臣下たちが世子のために尽くそうとする誠意がわからないわけではないが、十分に考えた結果、ここまで事態が及んでしまったからには、この処分をしないと他に道がない。ゆえに、余の意志を持って、左右の臣下に命令する次第である」
これは、まさに「張禧嬪を早く自害させよ」というものです。死罪の最終決定書と言ってもいいでしょう。
このように、粛宗は張禧嬪に死罪を命じましたが、大臣たちが猛反対します。なぜかと言うと、張禧嬪が世子の母親だからです。世子は1688年に生まれているので、このときは13歳になっていました。
次代の王となる世子の母親を自害させる……官僚たちが素直に従うはずがありません。粛宗は数多くの反論を受けました。しかし、粛宗は反対されればされるほど強硬になるという性格で、「もうすでに余が決めたことである」と断をくだしました。それによって、10月8日に張禧嬪は自害しています。
(第5回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=電子書籍『康熙奉講演録/朝鮮王朝で一番知りたい話』