側室から生まれた息子
光海君は臨海君と違い、豊臣軍との戦いの中で兵の士気を高めたことが評価された。
しかし、王宮の内部では臨海君と光海君のそれぞれを支持する派閥が権力争いを始めてしまった。
朝鮮王朝には「長男が後継ぎとなる」という原則があるため、本来なら兄の臨海君が後継ぎとなるべきなのだが、結果的に父親の宣祖は、臨海君の素行の悪さを理由に、光海君を後継ぎに指名した。
だが、そんな光海君の立場を脅かす事態が起きる。
それは、宣祖の二番目の妻である仁穆(インモク)王后が王子の永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのだ。
いくら、王の後継ぎになったとはいっても、所詮は側室から生まれた子供なので、正室から子供が生まれれば、立場が悪くなるのは当然である。宣祖も後継ぎを光海君から永昌大君に変えようとした。
しかし、宣祖はその望みを叶えることなく1608年に世を去ってしまう。その後、仁穆王后が王位継承の決定権を得た。(ページ3に続く)
光海君(クァンヘグン)を追放した仁祖(インジョ)に大義名分はあるのか?
光海君(クァンヘグン)が仁穆(インモク)王后に復讐された日(前編)