帰国した世子
仁祖の最初の正室は仁烈(インニョル)王后で、2人の間には4人の息子が生まれている。その長男が、世子(セジャ)の昭顕(ソヒョン)であった。しかし、仁烈王后は1635年に41歳で亡くなり、仁祖は二番目の正室として、荘烈(チャンニョル)王后を迎えた。
14歳という年齢で43歳の仁祖と結婚した荘烈王后であったが、夫婦となりながら王の愛を得られなかった。当時の仁祖は側室の趙(チョ)氏を寵愛していたからだ。
この趙氏は、悪女の代名詞のような女性で、後に様々な悪事に手を染めていく。
一方、清に連れていかれた仁祖の息子たちはどうなったのか。
長男の昭顕と二男の鳳林(ポンニム)は対照的だった。
昭顕は妻の姜(カン)氏と一緒に、清での生活に満足していた。人質とはいえ、不自由はなく、夫婦は先進の文明を満喫した。2人は西洋の宣教師とも交際し、世界観を大いに広げていた。しかし、鳳林は人質生活に不満を募らせ、清に対する復讐心を燃え上がらせた。
ついに、昭顕が8年間の人質生活を終えて帰国したのは1645年2月のことだった。父の仁祖と感激の再会を果たした昭顕と妻の姜氏。その場で昭顕は、清という国の素晴らしさを語り、朝鮮王朝も大いに見習うべきだと力説した。
「朝鮮王朝も清のような国になりましょう」
昭顕はそんなふうに清を称賛した。
途端に仁祖は不機嫌になった。
彼は清の皇帝の前で土下座のような謝罪をさせられた。その恨みが強く残っている。とういて清を許すことができなかった。
しかし、長男が清にかぶれてしまって、恨みを晴らすという気持ちが微塵もなかった。そんな息子に対して仁祖は激怒し、興奮のあまり硯(すずり)を投げつけた。
それから、2カ月後のことだった。(ページ4に続く)
光海君(クァンヘグン)を追放した仁祖(インジョ)に大義名分はあるのか?
光海君(クァンヘグン)が仁穆(インモク)王后に復讐された日(前編)