14代王・宣祖(ソンジョ)は、寵愛した側室の仁嬪(インビン)・金(キム)氏との間に4男5女をもうけたが、その1人が定遠君(チョンウォングン/1580~1619年)だった。彼には綾陽君(ヌンヤングン)という息子がいた。この綾陽君こそが、後の仁祖である。
光海君を強く恨んでいた
綾陽君は1595年に生まれた。
王子ではあったが、側室の系統の末席にいたので、王位継承の候補になれる存在ではなかった。こういう場合、屋敷を与えられて趣味に生きる、というのが、王位継承からはずれた王子の一般的な生き方である。
綾陽君も同様だった。
彼には、綾昌君(ヌンチャングン)という弟がいたのだが、あまりに優秀すぎたために、宣祖に続いて王位に就いた15代王・光海君(クァンヘグン)に警戒されて、結局は死罪になってしまった。
憤った綾陽君は、光海君に対して強烈な恨みを持った。
もともと、1608年に即位した光海君は、王位の安定のためとはいえ、兄の臨海君(イメグン)と弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を亡き者にしている。しかも、宣祖の継妃で光海君にとっても義母にあたる仁穆(インモク)王后を幽閉してしまった。これによって、光海君に恨みを持つ人たちがとても多かった。
綾陽君は同志を集めて、1623年にクーデターを起こした。これが、世に言う「仁祖(インジョ)反正(パンジョン)」である。「反正」には、「悪い政治をただす」という意味があった。
クーデターを成功させた綾陽君は、光海君を廃位にして、自らが即位した。こうして16代王の仁祖が誕生したのである。
しかし、即位後の仁祖は苦労の連続だった。(ページ2に続く)
光海君(クァンヘグン)を追放した仁祖(インジョ)に大義名分はあるのか?
光海君(クァンヘグン)が仁穆(インモク)王后に復讐された日(前編)