完成した「東医宝鑑」
宮廷に戻ってきた許浚は、再び研究と執筆に励むようになった。そして、1610年に「東医宝鑑」を完成させた。書名に使われている「東医」は、朝鮮固有の医学を意味していて、中国の漢方に対してつけられた名前である。光海君は医学書の完成をとても喜んだ。1613年に本として出版された「東医宝鑑」は、全国の医療院に配られた。
許浚はその後、各地で起きた伝染病対策のための医学書を記している。さらに庶民でも読むことができるようにとハングル版も書いた。「東医宝鑑」が完成してから5年後の1615年に世を去ってしまう。彼は、朝鮮王朝随一の医学書の作成や2人の王の主治医を務め、偉人と呼ぶにふさわしい医官だった。
文=康 大地(コウ ダイチ)
提供=「ロコレ」