首陽大君が起こした政変
首陽大君はその後、端宗のもとへ向かい、「皇甫仁と金宗瑞が国の乗っ取りを図りました」と訴えた。
首陽大君の次の狙いは、端宗のもう1人の補佐役である皇甫仁である。彼を倒すために首陽大君は端宗に高官を招集させる王命を出すように依頼した。
本来、端宗は王なので首陽大君の言うことを聞く必要はないのだが、強い力を持った叔父に対してそれができず、ただ言うことを聞くしかなかった。
そして、端宗の王命によって集まってきた高官たちを、韓明澮は狭い門から1人ずつ入ってくるように仕向け、首陽大君に批判的な高官を見つけるとその場で次々と切り殺していった。
首陽大君が起こしたこの政変は「癸酉靖難(ケユジョンナン)」と呼ばれている。
1455年、首陽大君は甥である端宗から王の座を強奪して7代王・世祖となった。しかし、無理やり王の座を奪った世祖を批判的に捉える者がいなくなったわけではない。
その代表格が成三問(ソン・サムムン)を中心とする「死六臣(サユクシン)」である。彼らは端宗を復位させようと世祖暗殺計画を実行に移そうとしたが、失敗して捕えられてしまう。
世祖は、成三問たちに「余を王と認めれば助けてやろう」と言ったが、誰も世祖を王とは認めず、罵倒し続けた。
それにより彼らは全員処刑されてしまった。(ページ4に続く)