豊臣軍による侵攻
1590年、朝鮮王朝は豊臣秀吉が大陸制覇の野望を抱いていることに気づいた。宣祖は、状況を知るために日本に使節団を派遣する。しかし、帰ってきた使節団の正使と副使の報告はまったくの正反対だった。
正使は「秀吉は必ず攻めてきます」と言ったのに対し、副使は「秀吉は攻めてこないでしょう」と言った。本来なら正使の意見を取り入れるべきなのだろうが、宣祖はむしろ副使の意見を採用して国防の強化を怠った。
1592年4月13日、壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本では文禄の役と呼ばれる)が勃発し、豊臣軍が大軍を率いて攻めてきた。朝鮮王朝は国防を疎かにしていたため、豊臣軍を釜山(プサン)に上陸させてしまう。さらに、5月2日に豊臣軍は、都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)を陥落させた。
王である宣祖は、驚きの行動に出る。なんと、彼は民を守るどころか真っ先に逃げ出してしまった。当然ながら人々は宣祖を怨んだ。王として民を見捨てて逃げるなど、王として絶対にやってはいけないことだ。
戦国時代が終わったばかりの日本には強力な武器や兵力があった。一方の朝鮮王朝は、1392年に建国されてから200年の間、特に大きな争いがなく、太平の世を過ごしていた。それが今回の油断につながり、豊臣軍の侵攻を止めることができなかったのだ。
しばらくは劣勢の状態が続いていた朝鮮王朝だが、救国の英雄である李舜臣(イ・スンシン)の登場により、豊臣軍の補給路を断った。この戦いは、途中に休戦をはさみながらも続き、1598年に豊臣秀吉の死により終結した。(ページ3に続く)