息子の荘献を餓死させた英祖
英祖は聡明な息子を頼もしく思い、14歳くらいから政策の一部を任せるが、荘献と老論派の相性はとても悪かった。老論派の者たちは荘献の素行の悪さが英祖の耳に入るようにするなど足を引っ張り始めたのである。それを聞いた英祖は、荘献を呼んでは問いただしたり、叱ったりした。そんなことが何度も続いたので、荘献は次第に英祖の言うことを聞かなくなっていった。
こうして英祖と荘献の親子関係は完全に崩れた。それでも老論派の者たちは、荘献を陥れるための工作を止めなかった。驚くことに、その首謀者は荘献の妻である恵嬪・洪(ヘビン・ホン)氏の叔父の洪麟漢(ホン・イナン)、英祖の継妃の貞純(チョンスン)王后・金(キム)氏、荘献の妹の和緩(ファワン)などの身内だった。
いくら荘献でも、自分の身内に陥れられたらひとたまりもないだろう。しかし、彼にも非がなかったわけではない。荘献は繰り返し妓生(キーセン)と放蕩を繰り返しただけでなく、側室を殺害するという犯罪まで犯している。そんな彼に神童と呼ばれていたころの面影はなかった。
荘献を警戒していた老論派はさらに彼を陥れる。老論派にそそのかされた1人の官吏が「世子(セジャ)様が謀叛を企てております」と訴えた。それを聞いた英祖は怒り、世子である息子に自決を命じる。しかし、荘献は「命だけは助けてください」と許しを請うばかりで、一向に自決しようとはしなかった。見るに見かねた英祖は彼を米びつに閉じ込めた。
それから荘献は水も食料も与えられないまま過ごし、閉じ込められてから8日後に亡くなっているのが発見されたが、世子がいつ亡くなったのかはわからない。英祖は息子の死をとても悲しんだ。あれほど険悪になった親子関係だが、英祖の世子を追悼するという気持ちは、時が経つにつれて高まっていった。彼は、世子の死を慎むという意味を込めた「思悼世子(サドセジャ)」という尊号を息子に贈っている。
その後、荘献の息子を立派な王としたいという強い気持ちがあったが、1776年3月5日に82歳で亡くなった。その後を継いだのが、荘献の息子の正祖(チョンジョ)だった。ドラマ『イ・サン』の主人公としてあまりにも有名な王である。
文=康 大地(コウ ダイチ)
提供=「ロコレ」