追放後に18年も生きた
政治的な業績だけなら名君と言われても不思議ではなかった。しかし、光海君によって排斥された人たちが決起し、1623年にクーデターが起こった。このとき、王宮の護衛兵たちはクーデター軍に抵抗しなかった。それが光海君の人望を物語っていた。世の中が王の交代を望んだのは、兄弟に対する所業が問われたからだろう。
光海君は流罪となり、最終的には都から最も遠い済州島(チェジュド)に流された。
さいはての地に送られたことにショックを受けた光海君だが、それでも済州島で生き続けた。先王としての尊厳を守られたとは言えなかったが、屈辱を胸にしまって島の暮らしになじもうとした。
世を去ったのは1641年で66歳だった。王宮を追われてから18年の歳月が過ぎていた。あの燕山君が島流しにあって2カ月ほどで息絶えたのとは正反対だった。
その後、光海君に対する歴史的評価はかなり変わってきた。今では、彼の政治的な業績を評価する気運も生まれている。
「光海君はクーデターで王宮を追放されたが、暴君ではなかった」
このように、光海君を擁護する風潮も生まれている。悪行のかぎりを尽くした燕山君とはまったく違う王であったことは確かなのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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