景福宮(キョンボックン)!歴史の荒波を乗り越えて甦った王宮

 

初代王・太祖(テジョ)が朝鮮王朝の正宮として建造した景福宮。朝鮮王朝最初の王宮は、幾度となく戦渦に巻き込まれ、焼失と再建を繰り返す。現在もソウル中心部で、最も威厳ある姿を見せている朝鮮王朝の象徴がたどった数奇な運命とは……。

正門の光化門(クァンファムン)




正門の向きをめぐる論争

1392年、高麗王朝を滅ぼし、朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ/太祖〔テジョ〕)は、高麗を懐かしむ民心を安定させるため、首都を開京(ケギョン)から移すことを決心した。
風水を信奉していた李成桂の望む土地は、首都の後方に山々がそびえ立ち、前方に川が流れる「背山臨水」だった。こうした場所は龍脈と言われ、風水的に精気が充実した土地といわれていた。この条件に最適な場所として白羽の矢が立ったのが、朝鮮半島の中心部に位置する漢陽(ハニャン)である。この漢陽が現在のソウルだ。
遷都はすぐに終わったが、王宮を築く段階になると、正門の向きをめぐって側近たちの間で激しい論争が起こる。中でも李成桂が重用していた鄭道伝(チョン・ドジョン)と無学(ムハク)大師の対立は深刻だった。
儒教を信奉する鄭道伝は、“長く続く王朝を築くためには、南側に向かって政務をしなければならない。よって、正門は南向きにすべきだ”といい、仏教徒である無学大師は“南側に災いを招く山があるので、それを回避するためにも、東向きに王宮を建てるべきだ”と主張した。




この論争は、スタートを切った新しい王朝が、儒教と仏教、どちらの教えを国教にするかと同じ意味を持った。
最終的に李成桂は、鄭道伝の主張を受け入れた。つまり朝鮮王朝は、儒教を国教とすることに決めたのである。
1395年、正宮としての景福宮の建設が始まった。
景福宮という名を付けたのも鄭道伝である。「景福」は中国の古典「詩経」に由来する言葉で、「王とその子孫たちが長く福を受け入れることを望む」という意味になる。李成桂も、この名を受け入れ、朝鮮王朝初の正宮の号とした。
(ページ2に続く)

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